2008年02月20日

読書感想文『Harry Potter and the Deathly Hallows』

さるおです。
さるおと一緒に歩いてくださったよい子のみなさん、本当にどうもありがとう。何度もへびの親方に土下座しそうになりましたが(弱い)、みなさんに励まされ、ベラの子分にならずにがんばれました。心から感謝しています。
スーパーポッタリアンなので、愛を込めて、さるおのハリポタツアー後に思ったことを書いておこうと思います。
思いっきりネタバレです。コメント欄も含めて、すごーくご注意ください。

人が成長する過程というのは、多かれ少なかれ、その人なりの痛みを伴う。コドモからオトナへ。親鳥の羽の下で過ごす守られた日々から、いつか勇気を出して自分の足で1歩を踏み出す。そして自分の居場所を探し求め、見つけるその日まで、格闘し続けるわけです、自分自身と。
それが人生。
ハリーもその人生を歩んでます。
だから、やっぱりこれは、ヒーローの話でもなければファンタジーでもなかったなぁ。
青春の物語ですね。学園モノです。この気持ち(感想)は変わりません。
ただ、ハリポタ内の死生観について、"Horcrux"と"The Master of Death"の共存は少々ひっかかりました。つまり、不死への道は2本あった、という点です。2つ目があまりに唐突に登場したので、ここから一気にファンタジーになってしまうのかと心配になりましたね。死んだけど(死にかけたけど)生き返る(三途の川から戻ってくる)、という話に秘宝を使ってしまうと、突然出てきたちょっと紛らわしいだけの小道具、という気がしてならなかった。だけど秘宝を使わないと、AKが当たったのに死ななかった、という大矛盾が生じてしまうから。
でも結局は、その"ファンタジー"なる部分が、うまく死生観としてまとまったような気もします。
"Horcrux"を作ると、つまり自分だけは永遠に死なないぞと欲を出して強引に自身を神格化する行為は、邪悪すぎて自分を痛めつけてしまう。もう取り返しがつかないほどに。
一方で秘宝集めはほんとは誰もがやりたいわけですが、ハリーだけが結果的にこれを達成します、"意図せずに"。"The Master of Death"に値するかどうかは秘宝(死神)が決めることなんですね。
そして、ハリーは死ななければならないという運命は、3つ集めたから死なない、という奇跡の大転換を起こす。これはハリーが求めたことではないし、さらに、ハリーは死と引き換えに世界を救おうなどいう大きなことも考えていなかった。自分が死ねば、世界を救うチャンスを残せる、というだけ。自分にできる最大限のことを、謙虚に遂げようとしたわけです。そしてそこからもう1度立ち上がるわけですね。
考えてみればやっぱり秘宝はAKに対抗する小道具に過ぎなかったわけですが、その意味するものはちゃんとあったわけですね。
命をかける。人生をかける。覚悟を決める。
そーゆー瞬間が、何度かあります、人生には。それは、避けて通れる人もいるかもしれないけれど、あったほうがよい。自分の意志で積極的に、何かを選び、決断し、そこに向かって行こうと1歩ずつ前に進むこと、それには意義があるとダンブルドアが言ったように。
この物語はひとつの人生をおしえてくれるなぁ。

ハリーも含め、オトナもコドモも皆、完全な悪や完全な善ではなく、短所をかかえた複雑な多面体として生きています。壮絶に生き、卑劣に生き、運命に抗い、社会に翻弄され、汚名に甘んじ、正義を信じ、欲にまみれ、自らを呪い、ある者は夢の途中で、またある者は誇り高く死ぬ。
それがこの世界。
やっぱりこれは、ファンタジーなんかではなかった。
人間の不完全さを描いた、人の世の物語ですね。
『LotR』はファンタジーとしての壮大な世界観を見事に描いたと思いますが、ハリポタが描いて見せたのはこの社会そのものです。この社会を生きる人々の姿だからこそ、完全な悪や完全な善など存在しないわけですね。
"完全な悪"に極めて近いところにいるのがヴォルディさんですが、その深い闇を、本当の暗さを、もっと描いてほしかった気はします。見捨てられたコドモの"怨み"というものが、頭の中でどう捩れて、恐怖政治を行う暴君への道を歩み始めたのか。
ダンブルドアに言わせれば、"選択"という行為を行うのがハリー、それができないのがヴォルディなわけですが、だからと言ってなぜ不死と同時に世界を手に入れようとしたのか。
そしてその高みを目指したにもかかわらず、自称天才のヴォルディが策略家になりきれず、幼稚に立ち回ってしまう"オトナのガキ大将"にしかなれなかったのは、彼に"何が"欠落しているせいなのか。
いや、わかるんだけど、もっとはっきり描いてほしかった。
ヴォルディの闇の深さをもっと感じることができれば、ハリーとヴォルディの1対1の対決はもっともっとおもしろかっただろうと思います。

この物語では、多くの血が流れました。その重みは、エピローグにあたる"Nineteen Years Later"を読んではじめてずっしりと感じます。
ここを読み始めたときにね、"19年後"なんて書かなくていいのにー、とじつは思いました。でも、読み終わったときに、やっとその意味と意義がわかりました。
生き残ったハリーたちが手に入れた世界は、顔をあげて自らの意志で戦場に立ち、自分の身体とハートで闘い、勝ち取ったものだということです。
生き残ったハリーたちが19年後に生きる社会は、その闘いで流れた血と、失った者への追悼と喪失感の上に成り立っている世界。
与えられた平穏ではなく、勝ち取った(奪い返した)平穏なんですね。虐げられようとしていた者が(ハリーを革命のシンボルとしたレジスタンスであるホグワーティアンが)独裁を阻止するクーデターの旗を振り、虐げられていた者が(例えばハウスエルフが)市民権をその手に取り戻す。フランス革命がそうだったように、血が流れ、灰が降り、革命が成就する。その土台の上で生きているわけです。父親も母親も次世代が生きる未来のために血を流し、コドモたちは親と志を同じくして戦いそして死んで行く。この犠牲と悲しみと痛みの上にこそ築かれる19年後なわけです。
現代に生き、与えられた日常的な日常を享受する多くの読者に対して、血を流して得た市民権というものが、エピローグによって語られているんですね。
なんとも感慨深い"Nineteen Years Later"です。この章は、なければならなかった。19年後のために、すべてが描かれていたのだから。

そして最後に、7作目『DH』は1作目『PS(SS)』にそっくりだったぁーっ!
『PS』でハリーは魔法界に足を踏み入れます。ハグリッドに連れられ、リーキーを抜け、ダイアゴン横丁を歩き、銀行へ行く。
『DH』ではハーについて、リーキーを抜け、ダイアゴン横丁を歩き、銀行へ行く。前とは違う気持ちで。
『PS』でヘドウィグに出会い、『DH』で別れを告げました。
『PS』で鳥が飛ぶのを見ると、校長先生は大事なときにかぎっていなくなってるわけです。
『DH』でも鳥が飛ぶのを見たら、やっぱりそれはロンドンへの知らせでした。
『PS』の賢者の石、『DH』の甦りの石。あのときのスニッチ。ダンブルドアが鏡に見るものもわかったし。森で敵と対峙する。
『PS』ではクィレルさんがスネイプを語り、『DH』ではハリーが語りました、同じ場面で。
『PS』でダンブルドアが、ハリーの額の傷跡の意味を語ってたし。
他にも、各章ごとにいくつもあります、符号点が、山ほどね。たしかに対になってます。物語自体も含めて。
2巻目は"秘密の部屋"に怪物がいて、その後の人生を支えてくれる人の命を救いました。
6巻目は"必要の部屋"からDEが出てきて、それまでの人生を支えてくれた人を失いました。
3巻目で家族を得て、5巻目で家族を失う。
そしてたしかに、すべてのターニングポイントは4巻目っすよね。
あまりに美しい構成と、あまりに精密な細部。ハリポタは素晴らしいですね。

心ゆくまでさるお、もんち!

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