『SYNECDOCHE, NEW YORK/脳内ニューヨーク』を観たよ。
シネクドキというのは、提喩(ていゆ)というやつですね。モノの捉え方に上位と下位がまずあって、どっちかでどっちかを表すタイプの比喩のことです。
靴履かないで飛び出してっちゃったよ、なんつって、ほんとは下駄でも草履でも好きなもん履いてりゃいいんだ。でも、「靴履かないで飛び出してっちゃったよ」って言われたら、裸足だって理解できるわけです。履き物全般が上位概念、その中のひとつである靴は下位概念。靴(下位)と聞いて履き物全部(上位)のことだってわかる。これが提喩。
逆もあります。お花見って言ったら桜なわけで、全体を表す"花"(上位概念)でもって"桜"(下位概念)だってわかっちゃう。
さてさて、脳内という邦題はかなり素晴らしいと思いますが、妄想だよ的に少し薄っぺらいので、やはり提喩だと思って受け止めてみたいです。
奇妙奇天烈。カウフマンらしい。
それで済ませるのはもったいないからな。
監督・脚本は『BEING JOHN MALKOVICH/マルコヴィッチの穴』や『ETERNAL SUNSHINE OF THE SPOTLESS MIND/エターナル・サンシャイン』のチャーリー・カウフマン(Charlie Kaufman)。
出演はフィリップ・シーモア・ホフマン(Philip Seymour Hoffman)、サマンサ・モートン(Samantha Morton)、ミシェル・ウィリアムズ(Michelle Williams)、キャサリン・キーナー(Catherine Keener)、エミリー・ワトソン(Emily Watson)。
えー、理解するといっても、物語を理解しようというのはナンセンスかもしれない。
何の脈絡もなくテレビコマーシャルとか広告に登場するケイデン、そのCMをぼーっと眺めているケイデン。これはもちろん"劇中の自身を演出する演出家ケイデン"のひとつの姿っすよね。
持ち主不在のオリーブの日記帳は開くたびに内容が書き加えられ、内容はオリーブの年齢(ケイデンが思う"MUST"年齢)に応じていてどんどんオトナの文章になる。これもまた娘に関する妄想かもしれないんだけど、それよりも娘についての演出と解釈できそうなわけです。
ケイデン役の女優が演出し始めるのを見て「才能が枯渇した」と言ったケイデンが目覚めると、舞台(倉庫に作り上げたニューヨーク)も枯渇していて、7時45分(死)がせまっているわけですね。枯渇したニューヨーク(舞台)のケイデンは役者になっていて、そのケイデンを演出するのはケイデンを演じた女優で、その女優を演出したのはもちろんケイデン。つまり、自分自身も演出の対象なわけで、すると冒頭の病気の話やマッカーサー・フェロー賞の受賞や、すべてのことがわからなくなる。歪んで惨めに滑稽に血を流し続ける"あのニューヨーク"の、すべてが演出なのか、どれが現実なのか。
燃えてる部屋に住んでるし、ビジュアルとしてはものすごいシュールっすよね。けれどそれとは対照的に、ケイデンの感情は観ているこちらが痛く感じるほど生々しい。まさに生身のアートなわけで、感情に追いかけられ芝居がいっこうに完成しない。純粋っすねぇ。
ケイデンが女優のかわりにカギを開けようとして言われるセリフ「観客との壁を破るつもり?」が、うーん、素晴らしい。
で、これは妄想(脳内)ではなくて、提喩(演出)なんだとすれば、ひとつひとつの奇妙な歪み(下位)は、人や街やこの世界(上位)の象徴なのですね。この世界の内側、人間の内側、感情のさらに内側にあるモノを、見せてくれてるんだなと。人生は舞台だ、とか言うとなんだか陳腐ですが、大きな倉庫にニューヨークを作って心の内側へ内側へと入っていく、そんな怖さと倒錯と奔放がまぜこぜになった良作だと思います。
アデルの書いている絵なんかはまさに提喩の下位っすね。こまかく観るとおもしろい"下位"がたくさんあります。
飼っている鳥の絵を描いていて、鳥が動くから絵を書き終わらないわけですが、"方向性が見えた"。わたくしは、こーゆーのがとても好きっすね。感動してしまいましたよ。
エンドクレジットで流れる曲がすごくいいっすね。
心ゆくまでさるお、もんち!